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関数型言語や英語学習の事とか。

教育は選抜ですか

まえがき

教育はこの世に生まれ落ちてこのかた労働し始めるまでずっと受けてきたはずなのだが、あれは教育だったのかと疑問に思う時がある。 最近はXXX先生の研究室でゼミに唯一着いてこれたのはYYYさん、あの人はこれでZZZに就職した、みたいな話を聞くと、 ゼミといいつつそこで行われていたのは教育ですか・選抜なのですか、という気持ちになる。

こう思う理由には、自分の塾講師の経験が大きい。 塾講師時代いろいろな生徒を見ていたが、本当に生徒によって能力差が様々で、 同じことを複数の人が同じやり方で取り組んでいるのに、片方はすんなり理解できるのに全く理解できない子というのが存在した。 私はどちらかというとハイレベルな授業を行うよりこういった子たちのケアを中心に授業を行うことが多かった。

事例1

高校2年生から受け持った子は数学を見ていたが、対数の計算がいつまでたっても理解できなかった。 対数の定義は?と聞くとしどろもどろになってしまうし(当然その都度こうなんだよ、という話はした)、 対数の簡単な計算問題はぎりぎり出来たが(定義が答えられなくても何故かその性質の一部は覚えていられた)、 ただ式変形をするだけはない、教科書練習問題レベルの問題は全く分からず、同じ問題を2週間後に出題してみても分かっていなかった。

宿題を全くやらない、みたいなことならぼくも理解できたのだが、その子は実に真面目な子だった。 毎回宿題はかならずやってくるし(しかし半分程度は分からなかったと言ってくるのだが)、出席態度もいいし、塾の自習室にいることも多かった。 どうしてなんだ、どうして、と思った。ぼくは逆にそんなに真面目に数学をやっていなかったので、本当に真面目に取り組んで 理解できていない人というのをそこで初めて目撃した。

私なりに毎週かなり教材研究をしてこういう風に教えよう、こういうロードマップで授業を行って このくらいの大学に入学できるようにしてあげよう、という計画はかなり時間を掛けて行ったつもりだった。 この時間は当然塾からお金はもらっていない、ボランティアだ。しかし駄目だった。

結局この子は志望の大学には入学できなかった。塾に沢山授業を受けに来てもらったのに申し訳ない。

事例2

色々な子たちがいたが、記憶に残っているのは推薦入試でどこかの薬科大に入った子だった。 その子は正直に言って高校2年生の教科書の内容も理解できておらず、ぼくが指導し始めたときには メモの取り方が分からなかった。そのため推薦入試のための随筆文・小論文が全くかけなかった。 ぼくが初めて授業をした内容は、随筆文の書き方だった。書き方と言っても全く高度な内容ではなく、 まず先にアウトラインを決めると良いよ、という内容を一緒に文を考えながら行っていた。

最初はノートをどう使えば良いのか全く分かっておらず、例えば文章の並びを右から順番に埋めていくだけで、 概要だけ考えて段落構成しよう、3行で内容をまず書こう、といった事を言った記憶がある。

その子は家庭環境が良くなかった。早くに学校に出席できなくなっていたそうで、塾には来るが学校には行かない状態が長く続いていたそうだ。 学校にはいけないのだが、塾に来て先生たちと喋るのは問題ないそうだ。 塾にはこういう事情を抱えた生徒たちがそれなりに存在し、一種コミュニケーションのトレーニングとして機能していたと思う。

人間の生まれた時の能力は一緒か

私はこういう経験を通して、人間というのは生まれたときに本当に平等なのか、能力が等しいのか、疑問に思っている。 むしろ、生まれたときに違っていてほしいとすら思っている。 なぜなら、生まれたときに決められる能力により数学が理解できないのであれば、僕が事例1の生徒などが理解できなかったということの原因は、私の指導力不足ではなくしょうが無いものになるから。

なら教育というのは、その人の資質を選抜するためであって育成するためではなくて、そのような行為は一切無駄なのだなという気持ちになる。